私達の精神病は未来を作る

家が、崩壊した。
家とは、何か?一義的には、ワールドトレードセンターである。だが、象徴的にはもっと大きなものである。ユングの原型論では、それは「統合」の象徴である。http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10691595520.html

私達とは私だ。
私とは私達だ。

私は最近、鬱だ。
鬱の底を見てやる覚悟である。
鬱の徹底化は生命の充溢をもたらすと確信しているからだ。

私は最近、暴力の塊だ。
二次元三次元問わず暴れている印象を受ける。
やる気のない瞳に映りこんできたあらゆるコミュニティーにアクセスしウイルスを注ぎ込んでいるという噂がある。
その証拠に私を中傷するメールが毎日最低七通は届く。
私はバラバラになり、家庭に分裂と混乱が訪れてしまった。

12月9日にworld’s end girlfriend主宰のVirgin Babylon RecordsよりリリースされたGo-qualia初のCDアルバム「Puella Magi」
は、セフィロトの樹(生命の樹)とクリフォトの樹(悪の樹)という
相対した二つの樹を中心とした二つの世界の狭間に在る現実世界で生きる魔法少女の「喪失」と「希望」の物語を描く。

まるで平野啓一郎のように、描く。

あたかも音楽家のGo-qualiaと小説家の平野啓一郎が同一人物であるかのように、だ。

(追記だが、Go-qualiaがヴァイオリンを弾いたら、平野啓一郎の声になるはずだ)

平野が三島由紀夫ををなんだおしぱいだたなあをについてをかあああしにたいなあ語っているように思える。
が、彼が語っているのは三島由紀夫についてではなく、Go-qualiaについてだ。
もっと言えば、Go-qualiaの音楽の芸術性についてだ。
2008/04/18にアップされたこの動画は2011/12/09に発売されたCDの話をしている。

これは平野に先見の明があったことを意味しない。

Go-qualiaスタイルの登場は自明であったから。

二人は同じタイプの芸術家である。
平野は無意識のうちにGo-qualiaについて語ってしまう。
Go-qualiaは無意識のうちに平野的音色を選択してしまう。


芸術は私達にとってはゴミだ。
芸術は私達の精神病を治そうとする。
精神病は治ることのない病気だ。
一度精神病になったら突進する以外に方法はない。
精神病の底を見ることだ。

そう私達は考える。
未来を見せられたら終わりなのだ。
私は私で未来が見たいのだ。
作るのだ。

遊びながらも。